ようやく車が修理から戻ってきた。さぁ車中泊再開だと意気込んでいたが、連休明けからどうにも天気が悪い。西日本の異様に早い入梅につられて関東も宣言こそされないがぐずぐずした空模様の日々が続いた。
23日の週は梅雨前線が南へ一旦退却するであろうという予報を頼みに腰を上げるも、当初の計画からまだ取りこぼしのある群馬県は「まん延防止等重点措置発令」となってしまった。一旦保留とし次案の福島へと車を走らせた。
事前に予報を数種類精査するのはいつものことだが、今回も毎日数時間置きに想定行動範囲の予報チェックにいやという程取り組んだ。その結果、旅程は23日から27日までの5日間とすることだけをまず決めた。あらかじめ考えている行動オプションを当日の天候次第で繋いでいくというのが今回のスタイルとなる。
初日は福島県全域がぱっとしない予報であったのと、やはり移動重視となる為に思い切って太平洋側を北上して東日本大震災の爪痕を辿る行程とした。いつかは彼の地へ足を向けなければならないという思いもあったのである。
内陸部を進んで茨城県の十王で太平洋を見渡したあと国道6号を北上していく。広野火力発電所の突出した煙突をが近づき楢葉町に入った頃、国道を離れて海沿いの道路を進むと、ここより津波浸水区間の案内板があり緊張する。
山田浜に小さな社を見つけて車を停めた。傍らに真新しい祈念碑があった。
もともと周囲に何があったのかは判らないが、今は荒涼とした海岸線に隣接する広大な荒れ地。海はといえば、新しく出来た高い防波堤に遮られて波音一つ聞こえない静けさが周囲を包んでいる。どこもかしこも整備されて真新しいだけに逆になんとも言えない寂莫感が漂う。
頑丈な真新しい防波堤 そして防風林として植えられた木もまだ幼い 後方は広野火力発電所
車を北に走らせていくとやがて異様な事に気が付いた。『帰還困難地域』の出現である。国道6号沿いの枝道の一つ一つがゲートで封鎖されているのだ。大きな交差点にはパトカーが止まり警察官が監視している。許可証を提示した人だけが一定時間だけ入ることを許されたエリア。そんな場所を左右に見ながらしばらく走っていく。道路の脇に時折現れるガソリンスタンドや商店、とりわけ大きく目立つ構えのケーズ電気でさえ建物は10年前のそのままにして時間が止まったように廃墟化しつつある現状。原発事故の後遺症を物語るに十分な惨状である。こんな景色がいつ果てるともなく延々と続く。路側の注意看板を読むと、国道は走行出来るが(長時間の滞留は放射線の影響を受けかねないので)徒歩や自転車などで通行してはいけないとある。
福島県浜通りには東日本大震災について伝える施設が幾つかあるが、今日はそのうちの一つである『東日本大震災・原子力災害伝承館』を見学することとした。
館内の展示は大震災直後の原発事故のあらましやその対応についての詳しい展示が主だったもので、一定の緊迫感は伝わってくるものの、ベースにあるのは原発を是としたい視点から作られたという疑念が払拭出来ない部分が残念であった。
原発誘致が地域経済へ貢献してきたことは紛れもない事実なのだが、そんなことを展示物の一部でさらっと紹介されても鼻につくような気持にしかならないのだ。
10年前のあの日、津波被害は少なくとも栃木県に住む者にとってはどこか遠い国で起きたことのような驚きの中、悲しみに包まれたものであった。だが、原子炉建屋が水素爆発をした時の報道映像をリアルタイムで見た時、それまでの人生の中でいろいろ危ない局面はあったとしてもあれほど死を身近に感じた事は無かった。
交通事故とか大きな怪我とか物理的な脅威が原因な死はある意味直接的であるが、爆発した原子炉から放出される放射線が音も無く忍び寄り、死をもって覆いつくすという恐怖が頭から離れなかった。死、なくとも様々な被曝障害だってあるだろう。
そんな事を思い出すたびに、原発はやはり容認出来ないと強く思う。CO2排出削減の為には火力発電や石炭発電が駄目。自然エネルギー活用は採算に合わないからやっぱり原子力という発想しか持たない経済界や産業界、政治家の思惑はもうそろそろ終わりにすべきなのではないか。発電コストがかさみ電気代が上がることによって企業と国民が受けるであろうデメリットは当然解るが、原発無しの電力供給を前提とした社会構造の変革を考えていくべきではないだろうか。
話が飛んでしまうようだが、新型コロナに対する日本の対応もそしてオリンピック開催に向けての姿勢も、自粛自粛、我慢我慢、安全安心を目指します、と繰り返してもなんのエビデンスも無い中戦い続けている。圧倒的な経済力と装備力の差を顧みずに無謀な戦争に突っ込んでいった戦前の指導者再来と言った感じさえする。
あまつさえ自粛警察、欲しがりません勝つまでは・・・同調圧力の嵐。そんな事に酔いしれる人達だけが悪いとは言わないが、近代国家なら個人の自由と尊厳と、そして国家としての安全とのバランスについていい加減進歩が欲しいと思うところ。戒厳令がまかり通ったり軍政が敷かれるなんていうのは断固、否であるが。
心配なのは、こういう非常事態に乗じて国民を恣意的に管理しようとする勢力が無視できないという事だ。国家の安全というのはあくまで国民が主体という点を忘れるべきではないのである。
改めて展示内容を見直していくと、原発の経済性や地域社会への貢献度、そして原子炉の安全性を説き、不幸にして災害に遭うも堅牢な多重防護機構があったのであの程度で済んだという言いたげな論調。そして事故発生後のスタッフ達の勇猛果敢かつ冷静な対応を賞賛するものであった。
確かに現場スタッフには敬意を表したい。また、その行動は讃えられるべきであろう。だが、そういう優秀なスタッフが原発を支えているかから安全だと言いたげな論調にも思えるのだ。
また、地域住民の声を取り上げたコーナーなどもあったが、どれも明るく前向きな意見が多くて本当に暗い所には触れられていないのも感じた。帰還困難地域を車で走り抜けてきた時のあの空虚感は一体何だったのだろうか。住むところを失われた人々は今どこでどうして、それまで描いていた人生の設計図を破り捨てなければならなかったのか。そんな事にもっと焦点を当てて「それでも原発必要ですか?」という展示にして欲しかったと思うのは自分だけであろうか。
よく見る除染土収納袋 確かに大きいが汚染エリアの広さに敵いがたいものがある
伝承館の展望エリアから 裏手には意図的なのか?津波で流されたものが未だ積まれていた
広野、大熊方面に進むと4Km程で福島第一原発に至るロケーション
南側の林の奥には汚染土の中間貯蔵施設がある 積み上げられた袋がスタンバっているがここも一杯になるのか
伝承館を後にして周囲を一回り走ってみた。海側に向かい、南に300m程進むとゲートがありそれ以上は進めない。原発から直線で3.6km地点である。ゲートの向こうに続く真っすぐな道が寂しそうに延びていた。
甚大な津波被害を被った請戸小学校が近くだったので行って見る。
請戸小学校は震災遺構として保存が決まっており下写真にあるように駐車場は綺麗に整備されていたが、建物自体は当時のまま安全性を担保しながら保存する工事が行われていた。立入禁止になっていたので外から見るだけであったが、建物内部の荒廃を見てただ圧倒されるばかりであった。
浪江駅の北側をかすめるようにして国道114号に入ると再び帰還困難地域が続くようになる。西へ向かうにつれ山間部となるが、それでも原子炉建屋水素爆発時の風向きから丁度国道114号沿いに北西に延びた浪江町はもはや廃墟と言って良い状況だ。
過疎で村から人が消えて行く現象は今の時代よく見られることだが、こんな田舎道でさえ国道以外は全て封鎖されており沿道の個人宅にも規制が敷かれて立ち入る事が許されないそんな光景が10kmあるいは20kmもあっただろうか。まるでアメリカの砂漠をハイウェイで走るように人間の営みを全く感じないロード。田や畑は自然に還りつつあった。
原子炉建屋の水素爆発程度だったから良かったのではなく、こんな事になってしまった現実や人々の苦悩をもっと泥臭く伝える伝承館であれば良かったのにとつくづく思ったのだ。
頭でっかちな政治家などは「その地域にどれだけの人が住んでるの?どれだけ生産性があるの?無くても構わないんじゃない」なんて思ってるのではと思いたくもなるのだ。そういう方は自分でハンドルを握ってそして道路に足を付けて歩いて見れば良いだろうとつくづく思うのだ。
今回は福島県への車中泊旅でしたか。
しかも5日間となると、観光や登山など、結構広範囲に楽しめたのではないでしょうか。
あれから10年・・・う~ん、色々考えさせられます。
やはり天気がスッキリしなくて予定通りとはいかなかったです。
欲を言えば二週間くらいかけたいところですが、もうちょっと天候が安定した時期じゃないとむりでしたね。
気温が高くても低くても車中泊は厳しいので実質的に春か秋がベストシーズン。
合間を見て、夏場に去年のような標高の高い場所に行こうかなと思っています。